短編小説「つながってる場所」#2

#2 桜を待つ夜に

その夜、もこが静かにこちらを見ていた。
まだ咲いていないはずの桜を、どこかで感じるような夜だった。

もこは鳴かない。甘えてくるわけでもない。
ただ、じっとこちらを見つめている。そして少し歩いては振り返る。

また数歩進んでは、振り返る。

まるで――「ついてきて」
そう言っているみたいだった。

不思議に思いながら、そのあとを追う。
気づけば、見慣れない場所にいた。やわらかな空気と、静かな光。
どこか懐かしいのに、初めて見る景色だった。

そして、その先に――

一匹の猫がいた。


艶やかな黒い毛並み。
碧い瞳。
さくら耳の小さな子。

るなだった。

初めて会ったときと同じ、少しだけこちらを見上げるような目をしている。
思わず名前を呼びそうになる。でも、その必要はない気がした。

るなはそこにいて、私を見ていた。

るなに出会ったのは、前にいた猫がいなくなって少し経った頃だった。
ぽっかり空いたままの時間の中で、まだ前を向けているとは言えなかった頃。

るなは、夫の帰り道にいた子だった。

春の前にやってきた寒波の日。
野良猫なのに警戒する様子もなく
まるで「おうちに連れて行って」と言っているみたいに懐いてきた。

でも、その日は連れて帰れなかった。
保護したのは翌日だった。

小さな体で、甘えん坊で、それなのに鳴き声はガラガラだった。
見た目とのギャップが、なんだかたまらなく愛おしかった。

「寒い冬を外で過ごさなくてよかったね」
あのとき、そう思ったのを覚えている。

あの頃の私にとって、るなは――
ただかわいいだけの存在ではなかった。

止まっていた時間を、少しずつ動かしてくれた存在だった。

だけど、一緒にいられた時間は長くなかった。
一年もなかったと思う。
次の年の桜の頃には、もう、るなはいなかった。

最後は、大好きだった小さなフリースの上だった。

小さな体が、もっと小さく見えた。
そして最後に――

「にゃ!」と、ひと声。

それが、るなとのお別れだった。

思い出は、たくさんあるわけじゃない。
それでも、確かにここにある。
もう触れることはできない。

それなのに、今夜は違った。
さっきまで、そこにいた気がした。

――るなとして。

るなは変わらない目で、こちらを見ていた。

私は何も言えなかった。でも、不思議と悲しくはなかった。
会いたかった。
その気持ちだけで十分だった。

るなは少しだけ目を細める。
それは、あの日と同じ優しい表情だった。

ふと気づくと、足元にはもこがいた。
来たときと同じように、静かにこちらを見上げている。

「もう帰ろうか」

そう言っているみたいだった。

どうしてあの夜だったのか。
どうして、るなだったのか。

理由は分からない。
でも、もこは知っているのかもしれない。

その前にいた子たちのことも。つながってきた時間のことも。

そして――

つながってる場所のことも。
目には見えなくても、ちゃんと会える場所。

だからあの夜、もこは私をそこへ連れて行ってくれたのだと思う。

気がつくと、私はいつもの部屋にいた。
隣では、もこが丸くなって眠っている。

静かな寝息。あたたかな体温。そっと背中に触れる。
たしかに、ここにいる。

今は、もこが隣にいる。

あの日、止まっていた時間を動かしてくれたるなの想いも
きっとどこかでつながりながら。