#3 風の中で、もう一度
午後のやわらかな光の中で、私はひとり、ティータイムを終えたところだった。
カップの中はもう空で、静かな時間だけがゆっくりと流れている。
少しだけ、まぶたが重くなる。
そのとき足元にいたもこが、ふいに顔を上げた。
じっとこちらを見つめたあと、すっと立ち上がり、数歩先へ進む。
そして振り返る。
まるで――
「ついてきて」
そう言っているみたいだった。
不思議に思いながらも、私はそのあとを追いかけた。
気がつくと、そこは見覚えのない場所だった。
けれど、不思議と怖さはなかった。
風がやさしく吹き抜け、どこか懐かしい空気が漂っている。
落ち葉の季節だった。
赤や黄色に色づいた葉が、風に揺れては静かに地面へ落ちていく。
そんな景色の中で、ふと、ひとつの記憶がよみがえった。
はじめて会った日のことだった。
らぐたんは、迷いなく私の膝の上に乗ってきた。
どうしてかは分からない。
でも、そのぬくもりに触れたとき、「この子だ」と思った。
らぐたんは賢くて、少し甘えん坊で、どこかマイペースなところがあった。
お気に入りの場所は、いつも私の膝の上だった。
当たり前のように乗ってきて、そのまま落ち着く。
押し入れの中で遊ぶのも好きだった。
外へ出ればヤモリを捕まえてきては、少し誇らしげな顔をしていた。
お風呂と爪切りは苦手だったけれど、そんなところも含めて、らぐたんらしかった。
特別な出来事があったわけじゃない。
食べて、眠って、遊んで、ときどき外の空気を感じる。
そんな何気ない日々が、あとから振り返れば、かけがえのない時間だったのだと思う。
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
夫の出勤の朝だった。
玄関の扉を開けた、その一瞬。まるで待っていたかのように、
らぐたんは勢いよく外へ飛び出した。
呼び止める間もなく、小さな背中はあっという間に遠ざかっていった。
もっと注意していれば。
あのとき、扉を開ける前に気づいていれば。
そんな思いが、あとから何度も押し寄せてきた。
後悔と思い出ばかりが頭の中を巡り、気づけば、
何度も名前を呼んでいた。
そのときだった。
風の中に、やわらかな気配が混ざる。
顔を上げると、そこにいた。
らぐたんだった。
あの頃と変わらない姿で、静かにこちらを見ている。
思わず名前を呼ぼうとして、声が出なかった。

でも、呼ばなくても伝わる気がした。
「ごめんね」と「ありがとう」が、胸の中で静かに混ざり合う。
らぐたんは何も言わない。
ただ、いつものように穏やかな目で、こちらを見ていた。
その表情を見ているうちに、少しだけ心が軽くなった気がした。
ふと、隣に気配を感じる。
もこが、こちらを見上げていた。
来たときと同じように、
「もう帰ろうか」そう言っているみたいだった。
次の瞬間。
私はソファに座ったまま、目を覚ました。
足元では、もこが丸くなって眠っている。
さっきまでのことが、夢だったのかどうかは分からない。
そっと、その背中に触れる。
あたたかい。たしかに、ここにいる。
それでも思う。
あの場所は、きっとどこかにある。
つながっている場所が。
足元では、もこが気持ちよさそうに眠っている。
その寝息を聞きながら、私はそっと背中をなでた。
見えなくなっても、つながりは消えない。
風が、そう教えてくれたような気がした。
